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短編

天袋の声

母の遺品整理のために古い団地へ戻った娘は、回線の切れた電話に残る新しい留守電から、開けてはいけない天袋の秘密を知る。

Genre
ホラー
Series
単発
#怪異#留守番電話#遺品整理#母娘#団地

母が死んでから三週間後、私は団地の四階の部屋に戻った。

エレベーターのない棟だった。子どものころは軽かった階段が、遺品整理の段ボールを抱えるにはずいぶん急に感じる。鍵を回すと、部屋の匂いはほとんど変わっていなかった。乾いた畳、古い化粧品、日向の薄くなったカーテン。もう誰も住んでいないはずなのに、母がちょっと買い物に出ているだけのような静けさが、玄関から奥へ細く続いていた。

押し入れの前に立つと、足が止まった。

子どものころから、あの天袋だけは開けるなと言われていた。理由を訊くと、母は決まって「埃がすごいから」と笑ったが、その笑い方は、台所の包丁の置き場所を教えるときより慎重だった。だから私は、その上段に何があるのか知らないまま大人になった。

午後いっぱいかけて食器を包み、衣類を袋に詰め、書類の山を仕分けた。日が落ちるころ、居間の隅の電話台に気づいた。留守番電話付きの古い固定電話で、液晶の数字が薄く死にかけている。その小さな赤いランプが、規則正しく点滅していた。

新着メッセージ、1件。

私はしばらく見つめた。回線は葬儀の前に解約している。鳴るはずがない。

冗談みたいだと思いながら、再生ボタンを押した。

ザ、と小さなノイズが走って、それから母の声がした。

『もしもし、志乃。聞こえるなら、返事をしないで』

私は思わず受話器を見た。録音だとわかっているのに、名前を呼ばれた喉が勝手にひらきかける。

『天袋を開けないで。もし上から声がしても、絶対に返事をしないで。お母さんがいない夜は、とくに』

そこで録音は途切れなかった。母の呼吸の向こうから、別の音が混じった。遠くで子どもが数を数えている。

いち、に、さん、し、ご。

私の声だった。

六で少し笑って、七を言い直す癖まで、そのままだった。

再生を止めたとき、部屋の静けさはさっきまでのものと違っていた。耳を澄ませば、どこかに、まだ数の続きを抱えた暗がりがある。そういう種類の沈黙だった。

翌朝、可燃ごみをまとめていると、向かいの部屋の婦人に会った。私が戻っていることを知っていたらしく、母のことを少し話した。母は晩年、よく夜中に押し入れに向かって独り言を言っていたという。

「変な人になっちゃったのかと思ってたけどねえ。でも一回、聞こえたのよ」

婦人は声をひそめた。

「お母さんじゃなくて、小さい子の声。かくれんぼみたいに数えてるの。あんたの親戚の子かと思ったけど、志乃ちゃん、一人っ子だったでしょ」

その日の夕方、母の書類箱から大学ノートを見つけた。家計簿のように見えて、途中から日記になっていた。几帳面な字で、日付と時刻が並んでいる。

『4月18日 3:17 また上から志乃の声。「おかあさん、ここだよ」返事しない』
『7月2日 3:17 電話が鳴る。無言のあと、数を数える声』
『10月11日 3:17 今日は私の声で呼ばれた。開けませんでした』

最後のページ近くに、短い一文があった。

『返事をすると、向こうがこちらの名前を持っていく』

意味はわからなかった。それでも、理解したくない何かだけははっきり伝わってきた。

子どものころの記憶を探ると、ひとつだけ引っかかる夜があった。押し入れの下段に潜って遊んでいて、暗い板の上から、自分を呼ぶ声を聞いたのだ。母の声に似ていた気もする。私は返事をしかけ、次の瞬間、母に乱暴なくらい強く腕を引かれて、外へ引きずり出された。泣いた私に、母は珍しく本気で怒った。

「名前を呼ばれても、返事をしちゃだめ」

あのときの母の青い顔を、いまさら思い出した。

夜になった。片づけを終えた部屋は広く、畳の目ばかりが月明かりを拾っていた。帰ればよかったのだと思う。けれど、ノートを閉じたときから、私は奇妙に落ち着いていた。長いあいだ母ひとりに押しつけていた当番が、ようやく回ってきたような気がしていた。

時計が三時十六分を指した。

押し入れの上から、ことり、と音がした。

呼吸を止める。

三時十七分ちょうどに、電話のランプが赤く灯った。ベルは鳴らない。ただ新着を示す光だけが、暗い部屋で小さく明滅する。その直後、頭上で、すぐ上で、板一枚隔てたところから声がした。

「志乃」

私自身の声だった。いまの年齢の、乾いた声だった。

「ねえ、開けて。息ができない」

喉が焼けるように熱くなった。返事をすれば楽になる気がした。ただひとこと、いるよ、と言えばいいような気がした。母は何十年も、これに黙って耐えてきたのだ。

天袋の襖が、内側からすこしだけ鳴った。

「お母さん、死んじゃったんでしょう」

今度の声は母だった。疲れたときの、笑う余裕もない低い声。

「もう大丈夫。開けて」

私はゆっくり電話台まで歩き、再生ボタンを押した。

ザ、とノイズがして、昨夜と同じ母の声が流れる。

『もしもし、志乃。聞こえるなら、返事をしないで』

頭上の気配が止まった。

『天袋を開けないで。もし上から声がしても、絶対に返事をしないで』

ノイズの向こうで、子どもの私が数を数え始める。

いち、に、さん。

天袋の襖が、こんどは外へ逃げるみたいに震えた。四、五。数が進むほど、部屋の空気が薄くなっていく。私はノートの最後の一文を思い出し、母の真似をして、小さく、しかしはっきりと言った。

「間違いです」

六。

「ここには、あなたの名前の人はいません」

七。

それきり音はしなかった。電話の再生も終わり、部屋は、古い団地の空洞みたいな静けさに戻った。

明け方、私は必要なものだけ持って部屋を出た。鍵は管理会社に返し、母のノートだけを鞄に入れた。あの天袋を開ける気には、最後までなれなかった。中に何があったのか、知りたいとも思わなかった。知らないまま守るほうが、この世には向いているものがある。

それから半年、私は自分の名前をできるだけ口にしないで暮らしている。宅配便には名字だけを書き、電話に出るときも名乗らない。最初は神経質だと笑っていた同僚も、事情を話さない私の顔を見て、そのうち何も言わなくなった。

昨夜、新しい部屋で、スマートフォンに通知がひとつ入った。

圏外のはずの地下で録音された、再生不能の音声ファイル。

ファイル名はなかった。ただ時刻だけが記されていた。

3:17

画面を見ていると、件名のないそれが、勝手に文字へ変わった。

「おかえり」

続けて、もう一行。

「こんどは、あなたが返事をしない番だよ」