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短編

雨の保管庫

市役所の地下で行き先のない録音を整理する女が、届かなかった父の声と向き合う話。

Genre
現代幻想
Series
単発
#雨#録音#父娘#別れ#再生

雨の日だけ開く保管庫が、市役所の地下にある。

正式な名称はもっと味気ない。旧媒体整理室第二保管区画。けれど誰もそんな名で呼ばない。窓のない廊下の突き当たり、重たい防火扉の前まで行くと、晴れの日にはただの壁のように沈黙しているのに、雨の日だけ蝶番のあたりから湿った金属の匂いがして、内側に人の気配が戻る。だから皆、雨の保管庫と呼んだ。

私はそこで、届かなかった声を整理している。

留守番電話のカセットテープ、取材用のマイクロカセット、式場で回された小さなメッセージカード型の録音機、もう再生機すら残っていない古い音の容れもの。家の取り壊しや廃業した店の片づけで出てきて、引き取り手のないまま市に流れ着いたものたちだ。内容確認、日付の推定、要保管か廃棄かの分類。それが私の仕事だった。

四月の終わり、梅雨の走りみたいな細い雨が朝から降っていた。保管庫の棚のいちばん下、段ボール箱の底から、透明のカセットがひとつ出てきた。ラベルはない。ケースに白い油性ペンで、かすれた数字だけがあった。九七、か一三、判別のつかない書き方だった。

再生機に入れると、最初に空白が続いた。その無音のあいだ、ヘッドの擦れる音だけが、遠い波みたいにしていた。

それから男の咳払いがひとつ入った。

「……由井」

私はそこで停止ボタンを押した。

地下の空気はいつも少し冷えているのに、そのときだけ耳の奥が熱くなった。由井は私の名前だった。珍しいほどではないが、ありふれてもいない。偶然だと考えるには、声があまりに近かった。

父の声だった。

二十年以上会っていない人の声を、どうしてすぐわかるのだろう。記憶なんて曖昧なくせに、声だけは古びた鍵の形みたいに、耳のどこかに残っている。父は私が十歳のとき家を出た。喧嘩の理由も、どちらが悪かったかも、私はもう細部を思い出せない。ただ台所の蛍光灯がちらついていて、母が湯のみを流しに置く音だけが、やけに硬かったことを覚えている。

私はしばらく再生機の前に座っていた。隣の机では、先輩の安西さんがミニディスクの目録を作っている。キーボードを打つ音は一定で、私の内側だけが別の天気になっていた。

「どうしたの」

安西さんが画面を見たまま言った。

「少し、知ってる声に似てて」

「ここ、そういうのありますよ。本人じゃなくても、届かなかった声って、みんな似るんです」

似る、のだろうか。私は返事をせず、カセットを裏返してケースに戻した。透明なプラスチックに、自分の指紋が淡く曇って残る。

昼休みに屋上へ出ると、雨は細いまま続いていた。庁舎の屋上から見える川は、空の色を吸って鉛筆の芯みたいな鈍い光をしている。私は自販機の温かいコーヒーを持ったまま、飲めずにいた。

父は口数の少ない人だった。黙っていることに慣れすぎて、何かを言おうとするたび言葉が服の裏地みたいにひっくり返ってしまう人だった。だから家にいた最後のころも、怒鳴った記憶はない。沈黙ばかりが増えて、ある朝いなくなった。母は「あの人は説明が下手だった」とだけ言った。私はずっと、その説明のなさを、見捨てたことと同じ意味で受け取っていた。

午後、保管庫へ戻ると、雨の匂いが少し濃くなっていた。私は申請書の束の下にカセットを隠したまま、定時ぎりぎりまで触れなかった。業務の私物化は禁止されている。感傷も、勝手な解釈も、目録には不要だ。けれど最後に安西さんが「先に上がるね」と扉を閉めてから、私はまた再生機の前に座った。

ボタンを押す。回転音。二度目の咳払い。

「由井。たぶん、これも渡さないままになる。そういうのが、俺は多い」

そこで小さく息を吸う音がした。煙草をやめられない人の浅い肺の音だった。

「おまえに何を言っても、言い訳に聞こえるだろうし、実際そうだと思う。でも、いなくなる前に、ひとつだけ言っておけばよかった。おまえが朝、玄関で靴を探して、片方だけ履いて泣きそうな顔をしてた日、俺は会社に遅れそうで、見ないふりをした。あの顔を、ずっと覚えてる」

私は目を閉じた。そんな朝があったかもしれないし、なかったかもしれない。けれど片方だけ靴を履いて立つ自分の姿は、すぐに思い浮かんだ。子どもの記憶というより、他人から返却された自分の写真みたいだった。

テープの向こうで、父はまたしばらく黙った。

「大きなことじゃなくて、そういう小さいのを、俺は何回も取りこぼした。だから家を出たことだけが悪かったわけじゃない。出る前からもう、下手だった。……悪かった」

そこで録音は切れた。終わりの合図みたいに、機械の回る音だけが少し続いた。

私は再生機からカセットを取り出せずにいた。謝罪としては足りない。遅すぎるし、説明もない。なぜ出て行ったのか、母をどう思っていたのか、私に会いたかったのか。そのどれも入っていない。なのに、その短さのせいで逆に、父が本当に言えたことはこれだけだったのだとわかってしまう。器用な人ならもっと整った言葉を選べただろう。でも父は最後まで父のままだった。

翌週、私は半休を取って、昔住んでいた町へ行った。駅前のパン屋はコインランドリーになっていて、小学校の門だけが変わらず重かった。アパートはもう取り壊され、駐車場になっていた。白線の上に雨粒が丸く弾け、車止めのコンクリートに水がたまっている。私は傘を閉じ、その場所に少しだけ立った。

持ってきたのは、父が置いていった部屋の鍵だった。母が死んだあと、台所の引き出しの奥から出てきたものを、なぜか私は捨てられずにいた。古い真鍮の鍵はもうどこも開けない。それでも手放せなかったのは、怒りのためだったのか、説明を待つためだったのか、自分でもわからない。

私は駐車場の端にある金網へ近づき、鍵をそっと結びつけた。持ち主のないものを置いていくのは良くない、と一瞬思ったが、すぐに考え直した。これは置いていくというより、返すのに近かった。

その夜、保管庫で私は業務用ではない小さなレコーダーを回した。規則違反にならない程度の、個人的なメモという体裁で。

「聞く相手がいないのは知ってる」

自分の声は思ったより平らだった。

「でも、受け取りました。靴のこと、私は覚えてなかった。たぶん、覚えてなくてもよかったことなんだと思う。あなたが覚えていたなら、それで十分です」

少し考えてから、私は付け足した。

「鍵は返しました。だから、もう待ちません」

録音を止めると、保管庫はしんとしていた。返事の来ない静けさではなく、長く留め置かれていた荷物がようやく棚から降ろされたあとの、空いた場所の静けさだった。

カセットは規定に従って保管継続にした。引き取り手不明、内容上廃棄保留。目録の備考欄には、それだけを書いた。そこに娘の名前も、私の事情も書かない。書かれないままでいることにも、ひとつの礼儀がある気がした。

梅雨が本格的に始まるころ、保管庫の棚に空きができた。私は新しい段ボールへ番号札を貼りながら、ふと、自分の声もいつか誰かに拾われるのだろうかと思った。届くためではなく、届かなかったという形のままで。

扉の向こうでは、今日も雨が降っていた。私は防火扉を押し開け、地上へ続く階段を上がった。濡れた町の匂いがして、傘をさす人たちの流れが、どこか少しだけやさしく見えた。