短編
春に取り残された声
閉店間近の電器店で古い留守番電話を預かった修理店員の女性が、遅れて届く声を通して、自分の言えなかった言葉に向き合う短編。
駅前の電器店は、春のあいだに静かに死んでいく生きものみたいだった。
入口の自動ドアは朝になるたびに律儀に開いたが、昔のように客を吸い込むことはなかった。蛍光灯は一本だけ点滅していて、その下に並ぶ炊飯器や電気ポットは、もう誰にも選ばれない未来を知っているように白く黙っていた。店長は閉店セールの赤い札を几帳面に貼り替え、私は修理受付のカウンターで、来るかどうかわからない客を待ちながら伝票の角を揃えていた。
店は今月でなくなる。駅前の再開発で、ここ一帯はガラス張りの新しい建物に変わるらしい。新しい建物には、壊れたものを直すための窓口は入らないと、店長は苦笑しながら言った。買い替えのほうが早いですからね、と。
その日の午後、雨上がりの匂いを連れた老婦人がやってきた。薄いベージュのコートの裾が濡れていて、両手で箱を抱えていた。箱はずいぶん古く、側面に宅配便の伝票を剥がした跡が幾重にも残っていた。
「これ、見てもらえるかしら」
中に入っていたのは、カセット式の留守番電話だった。乳白色のプラスチックは少し黄ばんでいて、受話器のコードは時計のばねみたいに細く縮れていた。メーカー名のロゴはもう消えかけている。
「再生すると、途中で止まるの。声は入ってるのよ。たぶん」
老婦人はそう言って、まるで熱のある子どもを預けるみたいに本体をカウンターに置いた。
「急ぎではないんですけどね」と彼女は言った。「ただ、閉まる前にこの店に頼みたくて」
私は伝票に名前を書いてもらった。野中菊江。住所は駅の北口、川沿いの古い住宅地だった。
「中のテープ、大事なものですか」
「ええ。大事かどうか、確かめたいの」
言い方が少し変わっていたので、私は顔を上げた。老婦人は笑っていなかった。
「昔の留守電って、聞かないまま残るでしょう。忙しかったり、帰るのが遅かったりして。消し方もわからないまま、そのまま次の季節になるの」
彼女は本体の角を一度だけ撫でた。
「そういう声って、なくなったようで、なくならないのよね」
修理室に持ち込んで蓋を開けると、ベルトが伸びきっていた。テープ走行に使う細いゴムが劣化して、触ると黒い粉になって指についた。私は倉庫の部品箱を探し、似た径のベルトを見つけて交換した。こういう作業はまだ体が覚えている。ネジを外す順番、爪を折らずにカバーを戻す角度、無理に力を入れてはいけない場所。
修理というのは、だいたい壊れたところを特定して、正しい部品に取り替える仕事だ。けれど古い機械には、ときどきもっと曖昧な故障がある。持ち主の時間の澱みみたいなものが、どこかに沈殿して動作を鈍らせているような。
試しに再生ボタンを押すと、機械は一度だけ湿った咳のような音を立て、それからかすれた電子音を鳴らした。
ピー、という発信音のあとに、女の声が流れた。
『菊江さん? 佐原です。お味噌、余ったから持っていこうと思ったんだけど、お留守みたいね。また夕方に来ます』
そこで音は切れた。私は点検用のイヤホンを片耳につけたまま、しばらく動けなかった。二十年も前のテープのはずなのに、声は妙に生々しかった。生活の温度がある声だった。冷蔵庫の前でエプロンの紐を結び直しながら吹き込んだような、そういう声。
巻き戻して、次のメッセージを聞く。
『お母さん、俺。日曜は行けそうにない。ごめん。今度、ちゃんと——』
そこでまた途切れた。テープが悪いのではなく、吹き込み自体がそこで終わっているようだった。今度、ちゃんと、の先だけが抜け落ちていた。
私はそれから、業務時間が終わったあとも一人で機械をいじっていた。店長は「戸締まり頼むね」と言って先に帰った。夕方の店内は広く、何も売れなかった日の気配で満ちていた。
留守番電話のメッセージは八件入っていた。近所の人らしい短い連絡、風邪はよくなったかと尋ねる声、回覧板を持っていくという声、そして一件だけ、男の低い声の長いメッセージがあった。
『母さん、出ないのはわかってる。たぶん、また散歩だろ。あのさ、来週そっち行く。今度こそ話そうと思ってる。あのとき言ったこと、ずっと気にしてるから。父さんが死んだ日に、俺は——』
テープはそこで空回りみたいな音を立て、止まった。
父さんが死んだ日に、俺は。
そこだけが、細い棘みたいに残った。
修理室の時計は午後七時を過ぎていた。私はイヤホンを外して、閉店後の店内の静けさを聞いた。蛍光灯の唸り、冷蔵庫の展示品が発する低い振動音、遠くを通る電車の軋み。そのどれも、返事のない機械の側にいると、やけに親切に聞こえた。
私は自分のスマートフォンを見た。母からの不在着信が三件入っていた。先週から、ずっと折り返していない。用件はたぶん決まっている。今度の連休、帰ってくるの。叔母さんも来るから。そんなところだろう。帰れば帰ったで、仕事はどうなのとか、いつまで一人でいるつもりなのとか、そういう話になる。面倒だったし、少し怖かった。
怖い、というのは妙だった。親に電話を返すだけなのに。
でも言葉というのは、いつでも中身だけの問題ではない。いつ話すか、どの沈黙のあとに差し出すか、その順番で重さが変わる。私はそれを知っていて、そのせいで、しばしば黙るほうを選んだ。
翌日、野中菊江が留守番電話を取りに来た。午前の光の中で見ると、彼女のコートの襟は少し擦り切れていた。
「直りました」と私は言った。「全部ではないですが、再生はできます」
彼女は椅子に腰かけ、私がスピーカーでメッセージを流すのを静かに聞いた。味噌の話も、回覧板の話も、風邪の話も、彼女は小さくうなずくだけだった。まるでその声の主たちが、今もこの店のどこかに立っているのを見ているみたいに。
最後に、息子らしい男の声が流れた。
『母さん、出ないのはわかってる。たぶん、また散歩だろ。あのさ、来週そっち行く。今度こそ話そうと思ってる。あのとき言ったこと、ずっと気にしてるから。父さんが死んだ日に、俺は——』
テープが止まると、老婦人は少しだけ目を閉じた。
「この人、来たんですか」と私は聞いた。聞いてはいけないことかもしれないと思いながら。
「ええ」と彼女は言った。「ちゃんと来たわ」
それから、バッグの口を整えながら続けた。
「来て、ちゃんと話したの。録音の続きより、ずっと下手くそに」
思わず私は笑った。彼女も笑った。
「息子ってそういうものでしょう」
「たぶん」
「夫が死んだ日、この子は病院に間に合わなかったの。雪で電車が止まってね。電話口でひどいことを言ったのよ、私が。あんたなんか帰ってこなくていい、って」
言葉は淡々としていたが、その淡々とした運び方に、長い年月が見えた。
「でも来たの。次の週に。玄関で三十分くらい立ったまま、同じことをくり返してた。ごめん、って。私はそれを聞きながら、お茶も出さずに、ずいぶん意地悪な顔をしてたと思う」
彼女はカウンターの向こうに並ぶ電子レンジを眺めた。
「そのあと仲直りしたわ。完全ではないけど、それなりに。だからたぶん、この録音の続きを聞けなくても困らないの」
「それでも、確かめたかった」
「ええ。なくなってないってことだけ」
会計を済ませ、彼女は本体を箱に戻した。持ち上げる前に、ふと私を見た。
「あなたも、聞いてない声がある顔をしてる」
私は何も言えなかった。老婦人は無理に答えを待たず、「春のうちがいいわよ」とだけ言って店を出た。
午後の客足は相変わらずまばらで、店長は在庫表とにらめっこしていた。私は休憩時間に店の裏口へ出た。狭い通路に古い室外機が並び、陽だまりだけが妙に新しかった。スマートフォンを取り出し、母の番号を押した。
三回の呼び出し音のあと、母が出た。
「もしもし」
その一言だけで、私は少し逃げたくなった。けれど切らなかった。
「あ、私」
「珍しいわね。何かあった?」
「別に。ただ、電話あったから」
母は一瞬黙ってから、「そう」と言った。責めるでも喜ぶでもない、その中間の声だった。
「連休、帰れる?」
「たぶん一日だけなら」
「そう。叔母さん来るけど、嫌なら時間ずらすわよ」
「いや、大丈夫」
風が吹いて、通路の奥の段ボールが鳴った。私はそこで、本当は別のことを言いたかったのだと気づいた。仕事のことでも叔母のことでもなく、もっと単純なこと。最近、電話を返すのがうまくできないこと。うまくやれていないこと。時々、何を言っても遅い気がしてしまうこと。
言葉はなかなか形にならなかった。けれど母は待っていた。受話口の向こうで、鍋の蓋が鳴る小さな音がした。
「母さん」と私は言った。
「うん」
「この前、電話返さなくてごめん」
それは驚くほど普通の一文だった。もっと劇的なものを想像していたのに、実際は乾いた、簡素な言葉だった。でも、その普通さのおかげで、ちゃんと届く気がした。
母は少し笑った。
「いいわよ、そんなの」
「いや、よくない」
「じゃあ次から返して」
私は笑った。笑いながら、胸の奥で何か小さくほどけるのを感じた。
「うん」
「駅前の店、もうすぐ閉まるんでしょう」
「そう」
「あなた、ああいう店に向いてたのにね。直すの好きだったじゃない」
私は室外機の上に手を置いた。ぬるい熱が掌に移った。
「まだ、何をやるか決めてない」
「決めなくても、そのうち決まるわよ」
「ずいぶん適当だね」
「親なんてそんなものです」
通話を終えると、春の風景がほんの少しだけ輪郭を変えて見えた。何も解決していない。店はなくなるし、仕事も未定だし、連休に帰ればきっとまた面倒な会話はある。でも、聞かないまま季節をまたぐ声が、一つ減った。
店に戻ると、店長が古いラジカセを抱えていた。
「これ、処分でいいかな」と聞く。
「まだ直るかもしれません」
「そう言うと思った」
私はラジカセを受け取った。プラスチックの角が欠け、アンテナが曲がっている。たぶん採算は合わない。直しても、誰かが喜ぶ保証もない。それでも、ネジを外して中を見る価値くらいはあるように思えた。
夕方、駅前の歩道に西日が差し、ガラス窓のセール札を赤く透かした。閉店まで、あと十一日。私は修理伝票の束を整え、新しい依頼票を一枚だけ引き出しの上に置いた。誰かが持ち込むかもしれない、まだ聞き終えていない声のために。