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短編

留守番電話の庭

閉店間近の喫茶店で古い留守番電話の声を預かる女が、言えなかった別れを自分の言葉で結び直す話。

Genre
現代幻想
Series
単発
#留守番電話#喫茶店#別れ#記憶#再生

商店街のいちばん端、川へ下る坂の途中に、「喫茶 庭音」はあった。名前のとおり、小さな庭が売りの店だったが、客の大半は庭を見に来るのではなく、レジの脇にある古い留守番電話を見に来た。

透明なカバーの内側で、赤いランプがときどき点滅する。再生ボタンの塗装は親指の形に薄く剥げていた。木札には、店主の字でこう書かれている。

『声の預かり所。ひとつ、三分まで。』

最初に見たとき、わたしは冗談だと思った。けれど雇われて三日目には、その機械に本当に人が声を置いていくのだと知った。もう会えない相手に向けて、返事のいらない用件を。謝りそこねたこと。報告し損ねたこと。別れた相手に言い忘れた癖のこと。死んだ父親にだけ通じる天気の話。

「聞かれるの、平気なんですか」
初日にそう訊くと、店主の槙さんは、コーヒーミルを回しながら笑った。
「聞くために預かってるんじゃないよ。ここに置くために預かってる」

五十八歳、独身、庭いじりが好きで、嘘をつくときだけ語尾がやわらかくなる人だった。

店の庭は、奥行きが二歩ぶんしかない。けれど季節の移り方だけは広かった。三月には雪柳、四月には黒い鉢のチューリップ、梅雨には名も知らない薄紫の草が増える。その鉢のいくつかには、客が残していった小さな声が埋まっている、と槙さんは言った。

もちろん本当に埋めるわけではない。閉店後、わたしは槙さんが留守番電話のメッセージを再生し、そのあいだだけ庭の土をほぐすのを見る。声が流れているあいだ、槙さんはほとんど何もしない。ただ雑草を一本抜き、枯れ葉を裏返し、鉢の向きを少し変えるだけだ。

「音で育つんですか」
「土はなんでも聞いてるからね」

いい加減な返事だったが、庭はたしかに妙に元気だった。とくに、店の壁を這うジャスミンは、道路側にまで香りを押し出してくるほど繁っていた。

わたしはそこで、昼から閉店まで働いた。注文を取り、ナポリタンを運び、食器を洗い、夜には声の数を帳面につける。再生は槙さんだけがした。わたしは内容を聞かない決まりだった。

その決まりが少しずつ崩れたのは、梅雨の終わりだった。

月曜の午後、雨宿りの客が二人帰ったあと、店は空になった。冷房の風で、窓辺のレースが呼吸みたいにふくらんだ。そこへ、四十代くらいの男が入ってきた。シャツの袖口だけが濡れていて、傘を持っていなかった。

コーヒーをひとつ頼み、飲み終わるまで二十分、その人は木札を見ていた。やがて席を立ち、留守番電話の前に立った。

「これ、今でも録れるんですか」
「録れますよ」
わたしが答えると、その人は少し困ったように笑った。
「べつに、誰かに届けたいわけじゃないんです」
「ここに置いていく方が多いです」

男は、そうですか、と言い、受話器の代わりに機械へ向かって話し始めた。

「もしもし。……違うな。ええと」
一度、言葉が途切れた。
「駅前のパン屋、なくなってたよ。おまえの好きだった、固いやつのある店」
また沈黙があって、低く息を吸う音がした。
「言うほどのことでもないけど、報告だけ。ずっと気になってたから」

そこで録音は切れた。三分どころか、三十秒もなかった。

男は料金箱に五百円玉を入れ、つりはいらないと言って帰っていった。槙さんはその背中を見送りながら、珍しく何も言わなかった。

夜、その声が庭に流された。閉店後の店には、皿の乾く音と、雨の残り香があった。槙さんは再生ボタンを押し、黙ってジャスミンの根元の土を指で押さえた。

『駅前のパン屋、なくなってたよ』

たったそれだけの報告が、ひどく丁寧な別れに聞こえた。

わたしはその夜、帰り道で、ポケットの中のスマートフォンを何度も握り直した。去年の秋に別れた人の番号が、まだ消せずに残っていた。削除する理由も、残しておく理由も、同じくらい曖昧だった。

別れた日のことはよく覚えている。駅のホームで、電車の遅延案内だけが何度も流れていた。彼は遠くへ転勤になり、わたしはついていかなかった。泣くほどのことではない、と二人とも思おうとして、結局、肝心なことをなにも言わなかった。ありがとうも、ごめんも、うまく未来形にできないまま、ドアが閉まった。

それから、留守番電話の客を見るたびに、わたしの中で言葉が熟れすぎた果物みたいに重くなった。

八月の最初の土曜、槙さんが熱を出して休んだ。店は臨時休業にしてもよかったのに、「鉢の水だけ頼む」と言って鍵を渡された。昼過ぎ、わたしはひとりで店を開けず、薄暗い店内でジョウロを持っていた。閉まったガラス戸の向こうを、買い物帰りの人が二、三人、足早に通り過ぎていく。

そのとき、レジ脇の留守番電話の赤いランプが、見たことのない間隔で明滅した。

新着はないはずだった。録音するには電源を入れ直す必要がある。槙さんしか触らない裏蓋のネジも、そのままだ。わたしはしばらく見ていたが、ランプは気まぐれに二度、三度、またたいた。

触れてはいけない気がした。でも、見ないふりをするには、あまりにも小さく、こちらを呼ぶ光だった。

わたしは再生を押した。

最初に聞こえたのは、遠くで食器の触れ合う音。それから、若い女の声だった。かすれてはいたが、聞き覚えがあった。数秒後、その理由に気づいて、わたしは椅子に手をついた。

それは、わたし自身の声だった。

『もしもし、あのね』
息をのむ音まで、わたしだった。
『こういうの、ずるいかなって思ったんだけど』
少し笑っている。何年も前、今より声が高い。
『今日、言えなかったから。先に言っとく。わたし、たぶん平気。だから、そっちもちゃんと行って』

そこでテープが乱れ、ざ、と砂を噛んだような音がした。続きはない。

記憶が遅れて戻ってきた。大学を卒業するとき、演劇サークルの部室にあった古い録音機で、わたしは同じようなことを吹き込んだのだった。付き合っていたわけでもない先輩が就職で町を出る日、面と向かって言えず、誰もいない部室で、冗談半分に残した。もちろん届けるあてもなく、そのまま忘れていた。

どうしてここにあるのか、わからなかった。槙さんがどこかで拾ったのかもしれないし、機械が気まぐれを起こしただけかもしれない。説明はいくらでも作れるし、どれも嘘くさかった。

ただ、その短い声を聞いたとき、わたしはようやく、自分が昔から同じことしか言えない人間だったのだと知った。引き留める代わりに、ちゃんと行って、と言う。寂しいと伝える代わりに、平気、と先に言ってしまう。

店の奥の鏡に映る自分は、ジョウロを持ったまま、ひどくぼんやりしていた。庭ではジャスミンが、風もないのにかすかに揺れていた。

翌日、槙さんにそのことを話すと、彼は驚かなかった。
「そういうこともあるよ」
「あるんですか」
「たまにね。預かった声が、置き場所をまちがえないこと」

わたしは笑う気にもなれず、帳面の角を指で押した。
「わたし、自分の声に、追いつかれてるみたいでした」
「追いつかれるのは悪くない」
槙さんは氷を砕きながら言った。
「先に置いてった言葉のほうが、あとから本人を待っててくれることがある」

その晩、閉店後の店で、わたしは初めて客として留守番電話の前に立った。槙さんはなにも聞かず、コーヒーの空き缶を料金箱の横に置いて、庭へ出た。

赤いランプは、近くで見ると少し心細い光だった。

わたしは名前を呼ばなかった。誰に向けるのか、はっきり決めないまま話し始めた。

「もしもし」
それから、少し考えて言い直した。
「元気ですか、でもいいし、元気じゃなくてもいいです」

機械は黙って待っている。

「駅のホームで、あのとき言えなかったことがあります。別れたかったわけじゃないです。追いかけなかったのは、優しかったからじゃなくて、怖かったからです。あなたが遠くへ行くのも、わたしがここに残るのも、正しいと思おうとして、正しいふりをしました」

一度、喉が詰まった。けれど、今度は平気と言わなかった。

「それでも、一緒にいた時間は、ちゃんと嬉しかったです。だから、なくしたことだけで思い出したくありません。あなたが向こうで新しいパン屋を見つけていたらいいなと思います。わたしはこっちで、ときどき花の名前を覚えます」

自分で聞いて、ずいぶん不格好な言葉だと思った。けれど録音を止める手は、思ったより静かだった。

庭に出ると、槙さんがホースの先をつまんで、水を霧にしていた。細かな粒が、店の灯りの中で銀色に浮かぶ。ジャスミンの蔓は壁を越え、もう通りのほうへ身を乗り出している。

「育ちすぎじゃないですか」
「聞き上手なんだろうね、この店が」

笑うと、ようやく胸の奥に少しだけ隙間ができた。そこへ夜風が入ってきて、息がしやすくなった。

数日後、あの濡れた袖口の男がまた来た。今度はアイスコーヒーを頼み、帰り際に庭を見て、「花、増えましたね」と言った。

「ええ」とわたしは答えた。「最近、よく育つんです」

本当は花より先に、置いていかれた声のほうが根を張っているのかもしれなかった。届かなかった言葉、行き先のなかった報告、言い損ねた別れ。そういうものが土のなかでほどけ、かたちを失い、代わりに香りだけ残していく。

その香りは、誰かを呼び戻しはしない。
けれど、見送ったあとにもまだ、自分の足もとに季節が続いていることを教えてくれる。

閉店後、帳面を閉じると、赤いランプが一度だけ静かに点いた。新しい声がひとつ、ここに置かれた合図だった。わたしはもう、すぐには再生しない。すぐに意味を知る必要はないと、この店で覚えたからだ。

外へ出ると、川のほうから遅い風が上がってきた。ジャスミンが揺れ、その匂いの奥に、かすかにコーヒーと湿った土の気配が混じる。

明日もまた誰かが、返事のいらない言葉を置いていくのだろう。
そしてたぶん、そのいくつかは、いつか置いた本人のところへ、別の季節の顔をして戻っていく。

わたしは店の鍵を閉めてから、ふと立ち止まった。
それから、誰に聞かせるでもなく、小さく言った。

「行ってらっしゃい」

今度はそれが、置き去りの言葉ではなく、ちゃんと今日の自分の声に聞こえた。