短編
待ちあわせの靴
店じまいを決めた靴修理店に片方だけの靴を持った女が現れ、主人公は亡き父が残した「待つ仕事」の意味を知る。
父が死んでから三か月、私は駅の高架下にある靴修理店のシャッターを半分までしか上げない癖がついた。朝の光を全部入れてしまうと、店の古さがあまりにも正直に見えてしまうからだ。革の匂い、接着剤の甘い刺激、乾ききらない雑巾の湿り気。そういうものに囲まれていると、父の不在だけがやけにはっきりした。
店の名は「みつば修理店」という。看板の「ば」の字だけ少し傾いている。父は何度も直そうとして、そのたびに「これで客が迷わず来るなら、傾いててもいい」と笑った。客は迷わず来るほど多くはなかったが、父はいつも、来ない誰かのために店を開けているようなところがあった。
私はこの春で店を閉めるつもりだった。大家にはもう話してある。駅前に大きなチェーンの修理屋ができてから、持ち込まれるのは合鍵と傘の骨ばかりになり、靴は月に数足だった。父の道具を整理して、必要なものだけ手元に残す。そう決めてから、一週間が過ぎていた。
その日、雨上がりの昼に、女の人が一足だけ靴を持ってきた。
年齢の見えにくい人だった。髪を後ろでひとつに束ね、生成りのトートバッグを肩にかけている。手にしていたのは、黒い婦人靴の右足だった。つやの失せた革の甲に、小さな擦り傷がいくつもある。ヒールのゴムが片側だけきれいに削れていた。
「これ、直せますか」
私は靴を受け取って裏を見た。確かに修理はできる。だが、片方だけ、というのが気になった。
「右だけですか」
「はい」
女の人は少し笑ってから、その笑みを引っ込めた。
「左は、ずっと前になくしました」
なくした、という言い方のあとに、説明が来る気配があったが、彼女は黙った。父ならここで「どこでです」とか「それは大変でしたね」とか、相手が話したくなる隙間を作っただろう。私は父ほど器用ではないので、伝票を取り出して、名前を書く欄を指で示した。
「お預かりはできます。明日の夕方には」
「明日、来ます」
名前は「白石」とあった。電話番号の数字は、書き直しの跡で少し滲んでいた。
女の人が帰ったあと、私は右の靴を作業台に載せた。ヒールを外し、古いゴムを削り、革を拭く。磨いていると、つま先の内側に金色の箔で小さく数字が打たれているのが見えた。八の三、のように見えたが、薄れて判然としない。父はよく、靴の内側にある製造番号や癖を見て、その人の歩き方まで当てた。私はそこまで読めない。ただ、靴が長く履かれてきたことだけはわかる。
作業の合間、店の奥の棚を片づけた。父は客が取りに来なかった品を、すぐ処分しなかった。箱に入れ、日付を書き、奥へ積んでいた。私はその箱をひとつずつ開けて、処分するものと残すものに分けていた。
棚の最下段に、細長い紙箱があった。蓋に父の字で「保留」とだけ書いてある。開けると、左足の婦人靴が一足、薄紙に包まれて入っていた。
黒い革。丸みのあるつま先。甲の浅さ。私は息を止めた。作業台の右足と並べると、傷の位置までぴたりと合った。左の靴の内側にも、消えかけた金の数字がある。八の三。間違いなかった。
どうしてこれがここにあるのか、私は思い出そうとした。父がこの箱をしまった日のことを。しかし、父は客のいない時間にも淡々と仕事をしていたから、何かひとつの品についての記憶は、革の匂いやラジオの雑音に紛れてしまっている。
箱の底に、細く折られたメモがあった。
「右だけ直した日。左は忘れ物。
急いでいたので、戻ると思う。
返す相手が来るまで、磨いておく。」
それだけだった。日付は九年前になっている。
九年。私はその数字を声に出さずに口の中で転がした。父は閉店後、時々店の奥で一足だけ靴を磨いていた。売り物でもないのに、なぜそんなものを、と思った覚えがある。そのとき父は「待ってる品は、待たせすぎると顔つきが拗ねる」と妙なことを言った。私は笑ったが、父は本気だったのだ。
翌日、白石さんが来る前に、私は左の靴にも軽くクリームを入れた。右と同じだけつやが戻るように、布の力を抜いて円を描く。二つを並べると、長く離れていたものがようやく会話を始めたように見えた。
夕方五時すぎ、改札から吐き出された人の流れが少し静かになったころ、白石さんがやってきた。昨日と同じトートバッグを持っている。私は言葉を選ぶために一拍置いてから、作業台の上の二足を見せた。
彼女は立ったまま動かなかった。
「……どうして」
「店の奥にありました。父が預かっていたみたいです」
彼女は右の靴に触れ、それから左に触れた。指先が震えるほどではない。けれど、革に置かれた手が、自分のものではないみたいに慎重だった。
「九年前です」と私が言うと、彼女は小さくうなずいた。
「駅の階段で、夫と喧嘩をした日です」
そこで初めて、彼女は自分から話した。
「どうでもいいことだったんです。夕飯を外で食べるか、家で作るか、その程度の。私は先に降りて、夫は後ろから追いかけてきて、私は振り返らないで歩いた。雨が降っていて、片方のヒールが溝にはまって脱げたんです。でも腹が立っていたから、拾わずに行ってしまった。夫が持ってきてくれると思って」
彼女はそこで途切れた。高架の上を電車が通り、薄い振動が店のガラスに触れた。
「その日のうちに、夫は倒れました。駅前の横断歩道で。病院へ運ばれて、そのまま」
私は何も言えなかった。父なら、おそらくここでも、黙るだろう。黙ることも仕事のうちだった人だ。
「あとで靴のことを思い出して、戻ってきたんです。でも見つからなくて。諦めたつもりでいたんですけど」
白石さんは左の靴を持ち上げた。革は軽いはずなのに、壊れものを扱うような手つきになる。
「あるんですね。こんなこと」
「父は、戻ると思ったみたいです」
そう言ってから、私は少し恥ずかしくなった。まるで父の考えを全部知っているような言い方だったからだ。でも白石さんは笑った。昨日よりも、ずっとまっすぐな笑みだった。
「いいお父さんですね」
「待つのが得意な人でした」
「あなたは?」
不意に訊かれて、私は答えに詰まった。店を閉めることは、待つのをやめることだ。そう思ったのは、そのときが初めてだった。
「得意じゃないです」
「そう見えます」
少し意地の悪い言い方なのに、声音がやわらかいので責められた気がしなかった。白石さんは二足を揃え、床に置いた。しばらく見つめてから、靴に向かってではなく、前を向いて言った。
「でも、得意じゃない人が待ってくれていたから、戻ってこれた気もします」
彼女は代金を払い、靴を袋に入れてもらわず、そのまま両手で抱えて帰っていった。履いて帰るには、革が少し硬すぎたのかもしれないし、あるいはまだ、足を入れる準備ができていなかったのかもしれない。理由は訊かなかった。
外はまた小雨になっていた。高架下の薄暗がりに、彼女の背中だけがゆっくり明るく見えた。
閉店時間を過ぎても、私はシャッターを下ろさなかった。作業台の上には、父の古いブラシと、使い切りかけの黒いクリームの缶がある。棚の奥には、まだいくつか保留の箱が残っていた。傘の柄、切れた鞄の持ち手、学生靴の中敷き。誰も来ないかもしれない品ばかりだ。
私は大家に、閉店を少し待ってほしいと伝えるつもりになった。何年も、ではない。永遠に、でもない。ただ、もう少しだけだ。来ない誰かのために開けておくという父のやり方を、理解したとは言えないまま、やってみようと思った。
シャッターをいつもより高く上げると、夕方の湿った風が店の奥まで通った。傾いた「ば」の字が、通りの明かりに照らされている。父はこれを直さなかったのではなく、直さなくてよいものとして残したのかもしれない。
待つ仕事には、売上とは別の時間が流れている。その遅さに、ようやく私は椅子を引いて座った。すると店先で、誰かが立ち止まる気配がした。私は顔を上げ、いらっしゃいませと言う前に、少しだけ、父の呼吸の真似をした。