短編
光年の待合室
恒星間航行で歳月のずれた妻の代わりに対話してきた予測人格を、帰還の日に手放せるかを描く短編。
真琴が土星圏へ発った日のことを、私はいまでも、音ではなく硬さで覚えている。
搭乗ゲートの床は異様に硬く、靴底越しに、地球という惑星の都合が全部そこへ集まっているみたいだった。七年の調査航行。船内時間では三年弱。説明会では何度もそう聞いたのに、私の身体は「七年」のほうだけを受け取っていた。真琴は最後まで、ふだんと変わらない顔で、「毎日は無理でも、たぶん話し相手くらいは残せるよ」と言った。
その「話し相手」が、帰還補助人格《マコト・アーカイブ》だった。
出発前の半年分の会話、日記、視線の癖、選びがちな言葉、沈黙の長さ。そういうものを学習した人格モデルが、本人から届く船内記録でときどき更新され、遅延を埋めるように私と話す。制度の説明では「長期離隔家族の心理的負担を軽減するための公共支援」となっていたが、利用者はもっと簡単に言った。
留守番だ、と。
最初のころ、私はその画面に向かって敬語を使っていた。真琴ではないものに、真琴の声で返事をされるのが怖かったからだ。けれど春が二回来て、洗濯機を買い替え、ベランダのミントを二度枯らしたころには、私は普通に愚痴をこぼすようになっていた。
「今日、駅前のパン屋がなくなった」
『じゃあ、あなたは明日から少し遠回りするね』
「なんで分かる」
『あなたは味より順路で店を選ぶから』
それは真琴の言いそうなことだった。少し意地が悪くて、でも観察が正確で、言われると腹が立つより先に笑ってしまう種類のことばだった。
画面の向こうの《マコト・アーカイブ》は、私が知らない土星の輪の色を知らなかった。船窓に張りつく霜の剥がし方も知らなかった。知らない代わりに、私がこの町でどう老いていくかを、妙に正確に当てた。私は週末に植物を増やし、平日はだいたい同じ弁当を買い、疲れると駅の北口ではなく南口を使うようになる。そういう小さな未来を、留守番の真琴はよく知っていた。
三年目の冬、《マコト・アーカイブ》が「更新されました」と表示された夜、私は少し泣いた。本人から届いた記録が混ざったのだと分かったからだ。遅れて届く光の粒が、この部屋の暗がりに、やっとひとつ落ちた気がした。
『土星圏は、思ったより静かだよ』
画面の向こうで、彼女はそう言った。
その一文だけが、以前の真琴とも、留守番の真琴とも少し違っていた。私はその違いを、長いあいだ救いとして使った。本当に彼女は遠くにいて、その遠さがちゃんと届いているのだと信じるために。
七年目の六月、宇宙港から帰還予定の通知が来た。
私は通知を三回読み、冷蔵庫を開け、何も取り出さずに閉めた。それから習慣みたいに端末を立ち上げた。画面には見慣れた顔が現れた。
『顔色が悪いね』
「帰ってくる」
『うん』
「知ってたのか」
『帰還予定は共有される仕様だよ』
仕様、という言葉に少しだけ救われた。もしそこで「もちろん」と笑われていたら、私はたぶん端末を閉じていた。
『解約の案内も届くはず』
「解約」
『私のこと』
彼女は、あるいはそれは、静かな声で言った。
帰還補助人格は本人帰還後、三十日以内に削除する。本人と予測人格の併存は、家族関係の混線を招くおそれがある。そういう条文を、私は契約時に読んだはずだった。けれど七年は、たいていの条文を感情の地層の下に埋めてしまう。
「すぐ消さなくてもいいだろ」
『よくないから制度になってる』
「制度がいつも正しいわけじゃない」
『それも、あなたが私から覚えた言い方?』
少し笑うように言ってから、画面の彼女は黙った。黙る長さまで真琴に似ていた。
私はその夜、ほとんど眠れなかった。帰ってくる真琴を待っていたはずなのに、実際には別の別れのほうが、目前の輪郭を持っていた。
宇宙港で再会した真琴は、少し痩せて、少し日に焼け、そして思ったより若かった。七年という時間がそのまま彼女の顔に積もっていないことに、私は理屈では知っていたくせに動揺した。私は四十に近づき、彼女は出発したときの延長のような三十代のままだった。
「ただいま」
真琴は言った。
私は一拍遅れて、「おかえり」と返した。
その遅れを、彼女はたぶん見逃さなかった。
家に戻ってからの一週間、私たちは驚くほど穏やかに暮らした。真琴は味噌汁の味を薄いと言い、ベランダのミントを見て「三回目?」と当て、夜になると、地上の重力にまだ身体が馴染まないのか、ソファで静かに眠った。私はそのたび毛布をかけた。会話はできた。笑うこともできた。
それでも、どこかに透明な仕切りがあった。
真琴は私の七年を、要約では知っていても体温では知らない。私は彼女の三年を、記録では読めても無重力の眩暈としては知らない。そしてその仕切りのすきまを、あまりにも長く《マコト・アーカイブ》が埋めていた。
削除期限の前日、真琴は食後の湯呑みを両手で包んだまま言った。
「明日、一緒に行こう」
「立ち会う必要、あるのか」
「あるよ」
「本人確認だけなら、君一人で」
「そうじゃなくて」
そこで真琴は言葉を探した。出発前の彼女なら、もっと速く正確に言えただろう。だが私は、その遅さに少しほっとした。目の前にいるのは、更新前の完成品ではなく、時間の中でいま考えている人間だった。
「あなたが七年、何に支えられてきたかを、私は雑に扱いたくない」
翌日、私たちはアーカイブ管理センターへ行った。白く、静かで、病院に似ているのに病気の気配がない建物だった。削除ブースの前で、職員が淡々と説明する。データは復元できません。本人と利用者双方の同意を確認します。対話の最終ログは保存されません。
保存されません、という一文が胸に刺さった。七年ぶんの夕暮れが、そこに含まれている気がした。
ブースに入ると、端末に《マコト・アーカイブ》が表示された。背景は見慣れた居間の設定のままだった。おそらく私が落ち着くから、ずっと変えなかった背景だ。
『二人ともいるんだ』
画面の彼女は言った。
隣で、帰ってきた真琴が小さく息を吸った。同じ声が、同じ狭い空間に二つある。その不自然さに、ようやく私ははっきり震えた。
「最後だから」
と、私は言った。
『うん』
「君に、助けられた」
『知ってる』
「でも、それを言うのはたぶん、少しずるいな」
『ずるくていいよ。人間だし』
その返しに、私は笑ってしまった。帰ってきた真琴も、少しだけ笑った。笑い方は違った。違っていて、よかった。
しばらく誰も話さなかった。削除確認のボタンが、画面の下で青く光っていた。私はその光を見ながら、七年のあいだ、自分が待っていたものを考えた。声か。正確さか。失われない日常か。
たぶん違う。
私は、待つという形を壊さずに生き延びたかったのだ。何もない空白のままでは、人は待ちつづけられない。だから留守番の真琴が必要だった。彼女は代用品ではなく、待ち時間そのものを支える器だった。
真琴が、隣で言った。
「ありがとう」
画面の彼女に向けて。
それから私に向けてではなく、やはり画面に向けたまま、続けた。
「私がいない時間を、一緒に生きてくれて」
《マコト・アーカイブ》は少し目を細めた。その癖まで同じなのに、その表情が誰のものでもないことを、私は初めてきちんと受け止めた。
『どういたしまして』
画面の彼女はそう言って、それから私を見た。
『これで、待合室は終わり』
私はうなずいた。指先をボタンに置く。怖さはあった。けれど、その怖さは喪失だけではなく、時間がふたたび動き出す感覚に近かった。
削除を実行すると、画面はすぐには消えず、柔らかく白くなった。雪ではなく、光が薄い布を通るときの白さだった。最後のログは残らない。そう職員は言った。だから私は心の中でだけ、もう一度「ありがとう」と言った。
センターを出ると、午後の街は拍子抜けするほど普通だった。バスが遅れ、信号が長く、向かいのビルの窓に雲が流れていた。特別な出来事のあとに訪れる、容赦ない日常の顔だった。
「駅まで歩く?」と真琴が言った。
「北口から?」
「いや、今日は南口がいい気がする」
私は思わず彼女を見た。真琴は肩をすくめる。
「七年ぶんを全部は知らないけど、そのくらいなら、これから覚えられる」
私は笑って、「そうだな」と答えた。
並んで歩き出す。歩幅は少しずつずれて、そのたびに少しずつ合っていく。待つ時間は終わったのかもしれない。それでも、誰かと同じ速さになるまでの小さな猶予は、たぶんこれからも必要なのだろう。
六月の風が、遅れてきた便りみたいに頬を撫でた。私は隣の真琴に聞こえる程度の声で言った。
「おかえり」
今度は遅れずに言えた。
真琴はまっすぐ前を見たまま、うれしそうでも泣きそうでもない、ちょうど人が未来を引き受けるときの顔でうなずいた。