短編
忘れない隣
名前を隠して暮らし始めた女が、誰もいないはずの隣室から自分の名を正確に呼ばれ続ける話。
春の終わりに、そのアパートへ越した。
駅から遠く、川に近く、古いわりに家賃だけが妙に安かった。内見のとき管理会社の男は、「壁は薄いですけど静かな建物ですよ」と笑った。私は静かならそれでよかった。前の町では、名前を知られていることが息苦しかったからだ。
郵便受けにも玄関にも、細い透明の差し札がついていた。紙を差し込めば表札になる。私はどちらにも何も入れなかった。表札を出さない人は最近珍しくない、と管理会社の男も言った。
入居して三日目の夜、はじめて隣の音を聞いた。
硬いものが、玄関の差し札に触れるような、かすかな擦過音だった。カリ、カリ、と爪の先で確かめるような音。時計を見ると午前一時を回っていた。壁の向こうからではなく、廊下から聞こえる。誰かが私の扉の前に立っている気配がした。
息を殺して覗き穴を見たが、廊下には誰もいなかった。
それでも音は続いた。カリ、カリ、カリ。
翌朝、玄関の差し札に小さな紙が入っていた。
白いメモ用紙を細長く切っただけのものだった。そこに、青いボールペンで一行だけ書いてある。
「おとなりさんへ」
それだけだった。名前はない。部屋番号もない。紙の端は湿って少し波打っていた。
気味が悪くて捨てた。管理会社に電話するほどでもないと思った。古い建物には、たいてい少し変な住人がひとりはいる。
だが次の夜も、その次の夜も、同じ時間に音はした。カリ、カリ、と差し札を探る音。覗き穴の向こうに姿はない。朝になると白い紙が挟まっている。
「きょうは雨でしたね」
「夜は川の匂いがします」
「あなたは眠るとき、左を下にしますね」
三枚目を見たとき、ぞっとした。最後の一文は、誰かが私の寝姿を見なければ書けない。
私はカーテンを閉めきり、窓の鍵を確かめた。ここは二階だが、外廊下に面した小窓がひとつある。そこから覗かれたのかもしれない。けれど小窓の外はすぐ川沿いの空き地で、足場になるものは何もない。
四日目の夕方、私ははじめて隣室の表札を見た。
私の部屋の右隣、二〇三号室。そこにも差し札があるはずなのに、中は空だった。郵便受けにも名前はなく、チラシばかりが口をあけている。玄関前には細い埃の線がのびていて、最近ほとんど開いた形跡がない。
ちょうどそのとき、階下から買い物袋を提げた年配の女が上がってきた。目が合うと、女は少し迷うようにしてから言った。
「あなた、二〇二の人?」
「そうです」
「隣、気になるでしょう」
私は返事に詰まった。女は私の顔色を見て、小さくため息をついた。
「前の人もね、ずっと気にしてた。名前、知られたくないって言ってたのに」
「前の人?」
「二〇二。若い男の人。半年もいなかったけど」
女はそれだけ言うと、もう話しすぎたという顔になって、自分の部屋へ消えた。
その夜、私は管理会社に電話した。二〇三は空室ですか、と訊くと、若い事務員は名簿をめくる音をさせてから「はい、いまは募集停止中です」と答えた。「何かありましたか」と聞かれたが、うまく説明できず、「いえ」と切った。
夜一時、例の音がした。
私は玄関灯をつけ、扉の前に立った。覗き穴は見ない。いきなり開ける勇気もない。扉一枚隔てた向こうに、誰かがいる。
カリ、カリ。
「誰ですか」
音が止んだ。
しばらくして、ひどく近いところから女の声がした。扉に口を寄せているみたいな、湿った小声だった。
「おとなりさん」
若くも老いてもいない、輪郭のない声だった。
「やめてください。警察を呼びます」
「呼ぶ前に、名前をください」
全身の毛が立った。
「どうして」
「思い出せないから」
その一言だけが、妙に深く胸へ入ってきた。私は返事をしなかった。しばらく扉の向こうに気配があって、それから遠ざかる足音もなく、ふっと消えた。
朝、差し札にはまた紙が挟まっていた。
「まだ、思い出せない」
私はその紙を持って、一階の大家の部屋を訪ねた。古いガラス戸を叩くと、出てきたのは背中の丸い老人だった。事情を話すあいだ、老人は驚きもしないで黙って聞いていた。そして紙を一瞥すると、「ああ」とだけ言った。
「二〇三の人だよ」
「空室じゃないんですか」
「空いてるよ、ずっと。女の人がいたんだが、もう五年も前に出ていった。いや、出ていったというか、運ばれていった。病院へ」
老人は言葉を選ぶように口を湿らせた。
「名前を忘れる病気だった。なんでも忘れるけど、隣に住んでる人の名前だけは、何度教わっても覚えたがった。ひとりで暮らしてたからね。せめて壁一枚向こうの誰かを、ちゃんと知っていたかったんだろう」
笑うような話し方なのに、少しもおかしくなかった。
「それで……戻ってきたんですか」
「さあ。人は、覚えそこなったもののそばに残ることがある」
老人は私の背後、階段の暗がりを見た。つられて振り返ったが、誰もいない。
「前の二〇二の人は?」
「表札を出した。二日で引っ込めた。それでも遅かったんだろうな。毎晩、名前を呼ばれていたらしい。とうとう返事をしてしまって、それから一週間で出ていった」
私はその日のうちに、玄関と郵便受けの差し札の寸法を測った。夕方、文具店で厚紙を買い、黒いペンで何度も練習した末に、ひとつの名前を書いた。
私の名前ではない。子どものころ飼っていた猫の名前でも、昔の同級生の名前でもない。できるだけ誰とも結びつかない、軽くて、すぐ忘れられそうな名前。
夜一時、音はやはりした。
カリ、カリ。
私は扉の前で息を止めた。
しばらくして、向こうから声がした。
「おとなりさん」
返事はしなかった。
「……ちがう」
声はひどくかすれていた。泣く寸前の子どものようにも、苛立った老人のようにも聞こえた。
「あなた、ちがう」
私は扉にもたれて、目を閉じた。開けてしまいたい衝動があった。違うなら何なのか、どこまで知っているのか、たしかめたくなる。だがそのとき、老人の言葉を思い出した。覚えそこなったもののそばに残る。なら、こちらから名乗れば、二度と離れない。
やがて気配は消えた。
それから数日は静かだった。私は眠れるようになり、朝のコーヒーの味も戻った。もう大丈夫だと思った。
八日目の朝、郵便受けを開けると、白い紙が一枚だけ入っていた。
細長いメモではない。便箋を破ったような、少し大きな紙だ。青いボールペンで、見覚えのない名前が何度も何度も書かれている。私が差し札に入れた、あの偽名だった。
行儀よく一列ずつ、丁寧な字で、隙間なく。
最後の行だけ、少し文字が乱れていた。
「つぎはほんとうの名前をください」
その晩から、隣室の差し札にも紙が入るようになった。
空っぽだった二〇三の差し札に、誰かが内側から差し込んだらしい、細い白紙。最初の夜は白いまま、次の夜には一文字、次の夜には二文字。覗きこむたび、そこに私の名前が少しずつ出来上がっていく。
私はまだ、自分の名を口にしていない。
なのに、あと一文字で完成する。