短編
忘れて呼ぶ部屋
遺品整理のため叔母の団地を訪れた青年は、誰も住んでいないはずの隣室から、自分の名を覚え直すような声を聞く。
叔母の遺品整理を頼まれたのは、秋の雨がひと月もやまないころだった。
海沿いの町にある古い団地で、五階建ての最上階だけが妙に暗い、と母は言った。照明が切れているわけではないのに、廊下の端まで光が届かず、夕方になると、まるで水の底みたいに鈍く沈んで見えるのだという。
叔母は生前、その五階の角部屋でひとり暮らしをしていた。葬儀のとき、親戚のあいだで何度も同じ言葉が交わされた。
「静かな人だったね」
「でも、最後まであの部屋から離れなかったね」
それだけしか言われない人だった。
鍵を預かって部屋を開けると、空気は思ったより普通だった。黴の匂いも、閉め切った家特有の淀みも薄く、誰かがついさっきまで窓を少し開けていたような湿り気だけがある。家具は少なかった。整理箪笥、背の低い本棚、丸い食卓。仏壇の代わりみたいに、小さな電話台が居間の隅に置かれていて、その上に灰色の固定電話が一台、きちんと正面を向いていた。
回線はもう止めてあると聞いていた。
僕は三連休を丸ごと使うつもりで来ていたから、初日はひたすら袋に詰め、紐で縛り、迷うものだけを脇へ寄せた。叔母の字は小さく端正で、古い公共料金の明細や、スーパーのレシートにまで日付と一言が添えてある。
十月二日、雨。鯖が安い。
十月六日、風。隣は静か。
十月九日、呼び間違い、一度。
その最後の一文だけ、意味がわからなかった。
夕方、ゴミを集積場まで三往復した帰り、五階の廊下で足を止めた。僕の部屋の隣、叔母から見て左隣の部屋の郵便受けに、ガムテープが十字に貼られていた。表札は外され、ドアノブに管理会社の札が下がっている。空室、と油性ペンで書かれていた。
そのとき、部屋の中で何か小さく鳴った。
金属が触れたような、かすかな音だった。中に誰かいるのかと思い、耳を澄ませたが、すぐに雨脚の音に紛れてしまった。古い建物だから、配管か、風で窓が揺れたのだろうと思った。
夜、整理を切り上げて布団代わりの寝袋を広げたころ、電話が鳴った。
古びた電子音だった。いまどき聞かない、角のある呼び出し音。僕はしばらく、どこで鳴っているのかわからなかった。スマホではない。外でもない。居間の隅、電話台の上の灰色の電話が、規則正しく震えるように鳴っている。
ありえない、と思いながら受話器を取った。
無音だった。
それから、女の声がした。
「……違います」
年齢のわからない、乾いた声だった。怒っているのではなく、ただ訂正するみたいな口調だった。
「そちらは、まだでしたね」
僕は返事をしなかった。喉がうまく開かなかったのだ。
「失礼しました」
そこで通話は切れた。受話器の向こうが先に沈黙し、そのあと、つう、と遠い波みたいな音だけが残った。
僕は電話線を確かめた。台の後ろにしゃがみ込むと、コードは壁の差込口につながっていなかった。先端は丸く埃をかぶって、ぷらりと宙に浮いているだけだった。
その夜は、結局ほとんど眠れなかった。
翌朝、管理人室を訪ねた。新聞を折っていた管理人の老女は、叔母の名前を出すと、ああ、と小さくうなずいた。
「きれい好きな人でしたねえ。毎朝、廊下を拭いてくれて」
「隣の部屋、前は誰か住んでたんですか」
「ええ、でもずいぶん前に」
老女はそこまで言って、湯呑みを持ち直した。
「一家で出ていったの。急にね。荷物もほとんど残したまま」
「何かあったんですか」
「さあ。よくある話ですよ。この町じゃ、急にいなくなる人」
よくある、という言い方だけが妙に耳に残った。
部屋に戻って、叔母の書類を仕分けしているうちに、電話台の引き出しから大学ノートが一冊出てきた。表紙に、ただ「となり」とある。中には日付と、短い記録が続いていた。
四月十四日 女の子の声。夜の二時。母親が呼ぶ。
六月一日 留守。三回。
七月二十日 男の人、名前が出ない。
八月三日 呼び間違い、二度。訂正あり。
九月二十六日 もう声だけになった。
十月九日 呼び間違い、一度。私の名ではない。
意味はわからないのに、読んでいると、胸の奥に冷たいものが溜まっていった。叔母は何を数えていたのだろう。何を待っていたのだろう。
昼過ぎ、廊下で掃除機の音がして、僕は少しほっとした。人の生活音は、それだけで壁を厚くする。けれど音は、すぐ左隣から聞こえていた。空室のはずの部屋から。
玄関を開けると、廊下に人影はない。音だけがドア一枚隔てた向こうでうねっている。古い掃除機の、吸い込みの弱い頼りない音だ。
僕は隣のドアの前に立った。ガムテープは剥がれていなかった。管理会社の札もそのままだ。なのに、内側を何かが行き来している気配がする。畳を擦るような、布を引くような気配。
「すみません」
思わず声をかけた瞬間、掃除機の音が止んだ。
どれくらい待ったかわからない。三秒かもしれないし、一分だったかもしれない。やがてドアの向こうで、誰かが口を湿らせるような小さな音がした。
「……どちらさまですか」
女の声だった。昨夜の電話より若い。けれど抑揚が乏しく、録音みたいに平らだった。
「隣の……叔母の部屋に来ている者です。ここ、空室ですよね」
「そうでしたか」
「中に誰か」
「お名前を」
僕は名乗った。
そのあと、向こうは何も言わなかった。息の気配も消えた。返事を待っていた僕の耳のそばで、自分の血の音だけがどくどく鳴った。やがて、ひどく遠くから来るような声で、
「まだ新しいですね」
と言った。
僕は、逃げるみたいに自室へ戻った。
その日の夕方、雨が強くなった。窓に打ちつける音が絶え間なく、団地全体が大きな容器の中で鳴っているみたいだった。帰ったほうがいい、と何度も思った。けれど、あと少しで片づくという現実的な都合が、恐怖より先に立った。人はそんなふうに、妙なもののそばに残る。
夜の七時に、また電話が鳴った。
今度は二回で取った。
「はい」
自分の声が、他人のものみたいに薄かった。
「確認します」
昨日と同じ女の声だった。
「あなたは、どなたでしたか」
胸がすうっと冷えた。僕は名を告げた。すると受話器の向こうで紙をめくる音がした。何冊もの薄い帳面を、風がばらばらとめくるような音だった。
「あります」
「何が」
「呼び名です」
僕は受話器を置こうとした。けれど指が離れない。耳に押しつけたまま、声だけが先に震えた。
「誰なんですか」
「隣です」
「隣って」
「あなたの叔母さまは、丁寧な方でした」
そこで初めて、声が少し笑った気がした。
「忘れる前に、何度も言い直してくださった。人の名は、使わないと剥がれますから」
通話が切れた。
僕はすぐに叔母のノートを開いた。末尾のほう、ほとんど空白のページの一枚に、鉛筆で強く書かれた箇所があった。
名前を聞かれたら、先に相手の名を聞くこと。
答えられないものに、自分を渡さないこと。
隣は、忘れた声で呼ぶ。
読み終えるより早く、玄関が三回、こんこんこん、と鳴った。
硬い指の関節で叩くみたいな音だった。
僕は息を殺した。叩く音はしばらく止み、それから今度は、ドアの向こうで女が僕の名前を呼んだ。
さっき名乗ったとおりの、正しい音で。
一度。
二度。
三度目で、最後の一音だけが少し崩れた。
母音の位置がずれ、知らない人の名になりかけた。
僕は立ち上がり、居間の電気を消した。真っ暗な部屋の中で、雨音だけが近くなる。玄関の向こうで、声は辛抱強く僕の名を繰り返している。正しく、少し誤って、また正しく。そのたびに、自分が薄い紙に印刷された記号みたいに思えた。読み上げられるたび、擦れていく。
どれほど経ったころか、呼ぶ声がやんだ。
代わりに、左の壁の向こうで電話が鳴り始めた。隣室の中で。空のはずの部屋で。古い電子音が、壁一枚越しに淡く響く。
受話器を取る音がした。
そして、はっきりと、叔母の声がした。
「はい、もしもし。ええ、いますよ」
間違えようのない声だった。低く、静かで、語尾だけがわずかに丸い。子どものころ、風邪をひいて寝ていた僕の額に、冷たい手を当てながら名前を呼んでくれたときの、あの声だ。
「でも、まだ渡しません」
少し間があって、
「この子は、まだ自分で自分を覚えていられるから」
僕は動けなかった。涙が出るほど安堵したのか、別の感情だったのか、自分でもわからなかった。
壁の向こうで、長い沈黙が続いた。やがて叔母が、電話口から離れずに誰かへ言い聞かせるように、ゆっくり言った。
「呼び名は、家に残るのよ。住んでいた声や、待っていた声や、送り出せなかった声と一緒に。だから空き部屋ほど、人を呼ぶのがうまい」
また少し間を置いて、
「でもね、うまいだけじゃ駄目なの。間違えたら、もうその人じゃなくなるから」
それきり、何も聞こえなくなった。
翌朝、雨は止んでいた。信じられないくらい明るい朝だった。窓を開けると、団地の下で小学生が笑っていた。世界は昨夜のことなど知らない顔で、濡れた手すりだけを光らせていた。
帰る支度を整えて、最後に電話台の前へ立った。灰色の電話は黙っていた。線の外れたまま、ただ古びた機械としてそこにある。けれど受話器のそばに、小さな付箋が一枚、いつのまにか貼られていた。叔母の字だった。
帰る前に、自分の名を声に出すこと。
僕はしばらくその紙を見ていたが、やがて、誰もいない部屋で自分の名前を一度だけ言った。ひどく間の抜けた儀式に思えた。けれど言い終えると、胸の奥に空いていた浅い穴が、少し埋まった気がした。
廊下に出ると、隣室のガムテープはそのままだった。管理会社の札も揺れていない。通り過ぎるとき、耳を澄ませば何か聞こえるかもしれないと思ったが、僕は聞かなかった。
エレベーターのない団地の階段を、荷物を抱えて一段ずつ降りた。四階、三階、二階。踊り場の窓から海が見えた。鉛色ではなく、薄い銀色だった。
一階まで降りきったところで、スマホが震えた。母からだろうと思って画面を見ると、知らない番号から着信していた。
出なかった。
その代わり、ガラス扉に映る自分の顔を見ながら、心の中で、もう一度だけ自分の名前を言った。
そのとき上のほう、五階のどこかの窓が、かすかに閉まる音がした。