短編
山の歪み
山道で一度見たはずの風景が、何度も繰り返される異常に気づいたとき、もう帰り道はなかった。
大学の登山サークルに所属する真帆は、春休みを利用して一人で軽いハイキングに出かけた。都心から電車で二時間ほど、標高の低い穏やかな山。ネットでも「初心者向け」と紹介されていたその場所を選んだのは、気軽に自然と触れ合いたかったからだ。
登山口にはいくつかの注意書きがあったが、どれも「熊に注意」「天候の急変に備えて」など、定番のものばかりだった。
登り始めて一時間ほど。天気は快晴、風も気持ちよく、山道も整備されていて、特に問題はなかった。途中、何人かの登山客ともすれ違った。
小さな沢を渡り、杉林を抜けると、開けた場所に出た。大きな岩と、傾いた木のある、見晴らしのいい広場のような場所。
「いいとこだな……」
ザックを下ろし、水を飲みながら地面に座る。小鳥のさえずり、木々を抜ける風。スマホで軽く写真を撮ってから、再び歩き出した。
だが、五分ほど進んだとき、違和感が襲った。
――同じ場所に、また出た。
大きな岩、傾いた木、広場の形。まったく同じ。GPSも、なぜか電波を失っていた。
迷った、と思った。Uターンして戻るが、どこをどう歩いても、また同じ場所に戻ってくる。ルートがループしているかのようだった。
三度目にその広場にたどり着いたとき、岩の上に誰かが座っていた。
白いジャンパーを着た、子どもだった。小学生くらいに見える。
「……道、わかる?」
そう声をかけると、子どもは首を傾げてこう言った。
「ここにいる人は、みんな帰れないよ」
言葉に背筋が凍った。
「いる人」というのは――自分以外にも、ここにいる?
真帆があたりを見回すと、木々の影や岩の裏に、確かに誰かが立っていた。
服装は登山者風、でもどれも古びていて、色あせていた。目が合った瞬間、彼らは一斉に口を開けた。
「かえれない」
「かえれない」
「かえれない」
その声は、風に混じって耳に直接流れ込むようだった。
真帆は叫びながら走り出した。足元はぬかるみ、空は一気に曇り、あたりの色彩が灰色に変わっていく。
何時間走ったのかわからない。気づけば、またあの広場。
ただ、一つだけ違っていた。
自分とまったく同じ服装、同じ髪型の「誰か」が、自分のザックを背負い、岩の上に座っていたのだ。
その顔がこちらをゆっくりと向いた。
――自分だった。
目だけが、真っ黒に塗りつぶされていた。
そこで意識が途切れた。
数日後、真帆は無事に下山した、とされている。
登山口の監視カメラに、ふらふらと歩く彼女の姿が映っていたからだ。
けれど、彼女の記憶はそこまでだった。
あの広場のことも、子どものことも、「全く覚えていない」と言い張った。
ただ一つ――彼女が手に持っていたスマホには、見覚えのない写真が一枚だけ残っていた。
それは、岩の上に座る真帆自身の姿。
目が、真っ黒に塗りつぶされていた。