短編
四階の留守番電話
管理人代理の私は、誰も住んでいないはずの四階の部屋から毎晩届く留守番電話を聞くうちに、団地そのものが誰かの不在を飼っていることに気づく。
団地の管理人が入院しているあいだだけ、私は代理で管理室に座っていた。古い団地で、エレベーターはなく、階段は昼でもうす暗い。夏の終わりだったが、建物の中だけ季節がひとつ遅れていて、廊下にはいつも湿ったコンクリートの匂いがしていた。
管理室の電話は、机の角に置かれた古い留守番電話つきのものだった。外線はほとんど鳴らない。用があるなら住人は直接やって来るし、若い人は自治会の連絡網より先に引っ越してしまう。だから、最初の留守電が入っていた夜も、私はいたずらだろうと思った。
『もしもし。まだ、ありますか』
女の声だった。若くも老いても聞こえない、曇りガラスみたいな声だった。雑音が細かく混じっていて、遠くの換気扇のような低い唸りがずっと背後にあった。
『四〇二号室の、郵便受けに。まだ、ありますか』
それだけで切れた。
四〇二は空室だった。半年ほど前、ひとり暮らしの女が急にいなくなった部屋だと、引き継ぎのときに聞いていた。夜逃げだとか、病院に運ばれたとか、誰かと揉めていたとか、噂はいくつかあったが、どれも人の口から出る途中で形を崩していた。確かなのは、荷物の大半が残ったまま、住人だけがいなくなったということだった。
翌朝、私は気まぐれに四階まで上がった。四〇二の前には、確かに郵便受けがある。差込口の下に小さな透明窓がついていて、なかに紙片が一枚だけ見えていた。広告ではない。白く、折られている。
勝手に開けるわけにもいかず、私は覗き込むだけで降りた。その日の夕方、二〇五の中村さんが家賃のことで来たので、ついでのように四〇二の話を出すと、彼女は露骨に顔をしかめた。
「あそこ、見に行かないほうがいいわよ」
「郵便受けに紙が入ってるんです」
「だからよ」
中村さんは声をひそめた。
「前の管理人さんも、あれを気にしてたの。毎月一日になると、空室なのに郵便受けに白い紙が入るんだって。業者が片づけても、翌月にはまた入ってる。気味が悪いからって、最後は見ないことにしたそうよ」
「誰かの嫌がらせじゃ」
「嫌がらせなら、もっとはっきり嫌なことをするでしょう」
その言い方が妙に本当らしくて、私はそれ以上聞けなかった。
二晩目の留守電は、午前一時過ぎに入った。管理室で書類を整理していると、機械が勝手に赤いランプを点滅させた。再生すると、同じ声がした。
『なくさないで。あれは、わたしがここにいた印です』
そこでいったん無音になり、しばらくしてから、すぐ耳元で囁くように続いた。
『あの部屋、もう、閉めないで』
私は受話器を戻し、しばらくじっとしていた。窓の外には団地の中庭があり、街灯が一本だけ、白い蛾に囲まれていた。風はなかった。なのに、どこかで金属の蓋がかすかに震える音がした。
気になって、その夜のうちに四階へ行った。非常灯だけの廊下は、水の底みたいに青かった。四〇二の前まで来ると、郵便受けの透明窓に、やはり白い紙が見えている。昼より少し手前に寄っていて、まるでこちらを窺う目のようだった。
私はしゃがみ込んだ。透明窓の内側に、紙ではなく指先が触れていた。
白くふやけた、人差し指だった。
思わず声を上げて後ずさると、郵便受けの口が内側から、こつん、と鳴った。ひとつだけ。ためらいがちなノックみたいに。
階段を駆け下り、管理室に戻ってからも、私はしばらく鍵束を握ったまま立っていた。見間違いかもしれない、疲れているのだ、そう考えようとしても、爪の半月まで見えたことを思い出してしまう。あれは紙ではなかった。
翌日、私は前任の管理人が残したノートを読み返した。設備点検の記録や苦情処理のメモに混じって、小さな字で四〇二のことが書かれていた。
「九月一日 また白いメモ」
「十月一日 処分したが翌月復活」
「十一月一日 テープに女の声」
「『まだありますか』」
最後のページ近くに、走り書きがあった。
「声は部屋からではなく、建物から来ている気がする」
意味が分からなかった。しかし、その晩には少し分かった。
留守電は三件入った。一件目は無音。二件目は、誰かが長い廊下を裸足で歩くぺた、ぺた、という音。三件目だけ、声だった。
『ここは、なくした人のものが残るんです』
女の声のあとで、子どもの咳払いのような小さな音がした。
『傘も、片方だけの手袋も、言えなかったことも』
私は再生を止めた。止めたはずなのに、機械のスピーカーはまだ微かに震えていた。
『名前も』
その一言だけ、ひどく鮮明だった。
次の日、私は四〇二の大家に連絡し、合鍵を借りた。ひとりで開けるのは嫌で、二〇五の中村さんに付き添いを頼んだが、断られた。代わりに塩の小袋を三つ渡され、「開けたらすぐ窓を全部開けて」とだけ言われた。
昼の四〇二は、拍子抜けするほど普通の部屋だった。六畳と四畳半、古い流し、黄ばんだカーテン。靴箱の上にマグカップが一つ、流しの脇に未開封の麦茶、押入れに布団。人だけが、きれいに抜き取られていた。
だが電話だけがあった。部屋の隅の床に、今では見ない型の留守番電話機が置かれていた。線は壁に繋がっておらず、コンセントも抜けている。それなのに、赤いランプが静かに点滅していた。
新着メッセージ三件。
喉が乾いた。私は再生ボタンを押した。
『もしもし、管理人さん。郵便受け、見ないで』
前任の管理人の声だった。
二件目。
『見たなら、返して。あの人は、自分が置いていったって気づいてないから』
これも前任の声だったが、ひどく掠れていた。息の継ぎ目で、遠くから何人もの咳が重なるのが聞こえた。
三件目で、私は指を離したくなった。
『あなたは何号室でしたっけ』
女の声が、穏やかに笑った。
『忘れる前に、郵便受けに入れておきますね』
その瞬間、玄関の鉄扉が、外からこんこんと鳴った。
昼なのに、廊下の向こうから夜の気配が流れ込んでくるのが分かった。私は扉に近づけなかった。代わりにドアスコープを覗いた。誰もいない。だが郵便受けの差込口に、白いものがゆっくり差し込まれていくのが見えた。細い指ではない。折りたたまれた紙だ。外に誰もいないのに、見えない手が丁寧に、押し入れていた。
こんこん。
もう一度。
私は震える手で内側の受け皿を開け、白い紙を取り出した。
中には、部屋番号と名前を書くような、ごく普通の小さなメモ欄があり、黒いボールペンで、まっすぐにこう書かれていた。
「管理人代理 岡野
一〇三号室」
私は一〇三号室に住んでいた。
その字は、私の字にそっくりだった。そっくりというより、急いで書いたときの払いの癖まで同じだった。いつ書いたのか思い出せないだけで、本当に自分で書いたのではないかと思えるほどに。
その日から、自分の部屋の郵便受けを見るのが怖くなった。帰宅してもすぐには開けられず、しばらく廊下に立って、耳を澄ますようになった。ときどき、中で紙が擦れる音がした。住人名札もいつの間にか少しずつ薄れていき、ある夜には「岡」の字だけが消えていた。
管理人は退院したが、私は代理を辞めなかった。辞めて自室にいるより、管理室の明かりの下にいたほうがまだましだったからだ。前任のノートの最後の余白に、私はひとつだけ書き足した。
「持ち主のないものは、ここでは持ち主を探し続ける」
そして今日も、月が変わる夜になると、四階からではなく団地じゅうの壁の奥から、留守電の起動する小さな電子音がする。
再生すると、たいていは無音だ。たまに咳払い。たまに、濡れた指で紙を折る音。
でも、月に一度だけ、あの女の声が入る。
『まだ、ありますか』
管理室の机の引き出しには、白い紙が何枚もたまっている。どれにも部屋番号と名前が書いてある。もういない住人のもの、たしかに実在したはずなのに誰も顔を思い出せない人のもの、そして、まだこの団地に暮らしている人のもの。
そのいちばん上に、今夜また、新しい一枚が増えた。
まだ開いていない。
けれど見なくても分かる気がする。紙はいつも、少しだけ先のことを書く。失くしたあとで、ようやく「あった」と言えるものの名前を書く。
だから私は、机の上の留守番電話が鳴っても、すぐには再生しない。
もし次に、女が私の名前を正しい声で呼んだら、その瞬間に、私はこの団地のどこへ仕舞われるのか、たぶん自分でも分からなくなる。