短編
湯気の向こうの宛名
閉店した母の喫茶店で見つけた未投函の葉書が、残された娘に不在と生きるための言葉を手渡す。
母の葬儀が終わって三日目の朝、私は喫茶おおるりの鍵を回した。開けるつもりはなかったのに、長く閉めたままの店は、それだけで何かが傷む気がした。
硝子戸の向こうには、いつもの匂いが薄く残っていた。挽いた豆、古い木、水を吸った布巾、それから、夜更けまで誰かが座っていた椅子の気配。カウンターの時計は止まっていて、母がいつも最後に裏返していた看板だけが、律儀に「準備中」のままだった。
売るものと捨てるものを分けるために、私は引き出しを順番に開けていった。スプーン、角砂糖、レシートの束、輪ゴム、もうインクの出ないボールペン。いちばん下の細い抽斗に、葉書が重なっていた。
輪ゴムで三つに束ねられ、どれも同じ宛名が書いてある。
三浦一郎様。
見覚えのない名前ではなかった。私の戸籍にだけ載っていて、人生には一度も現れなかった名前だ。父、と呼ぶべき人の名だった。
切手は貼られていない。住所もない。葉書はどれも投函されていないまま、角が丸くなるほど積み重なっていた。
私は立ったまま、一番上の一枚を裏返した。
〈今日、店先の沈丁花が咲きました。香りが強くて、常連さんがみんな春の話をしました。由奈はランドセルをしょって、まだ少し歩きにくそうです〉
由奈は私の名前だった。
二枚目には、私が熱を出した日のことが書いてあった。三枚目には、コーヒーカップを二つ割ってしまったこと。四枚目には、台風の夜、店のシャッターが鳴って眠れなかったこと。五枚目には、私がピアノをやめたいと言って黙りこんだこと。
責める言葉はどこにもなかった。戻ってきてほしいとも、なぜいなくなったのかとも書かれていない。ただ、毎日の小さな出来事が、湯気の向こうに置かれるみたいに、静かに並んでいた。
腹が立った。
こんなふうに書くくらいなら、憎んでくれたほうがよかった。いなくなった相手に、十八年も店の天気みたいなことを書き送って、それで何になるのだろう。しかも一枚も送っていない。宛先のない言葉を、こんなにたくさん。
私は束を元に戻そうとして、輪ゴムを切った。葉書が散って、床に薄い羽虫みたいに広がった。
そのとき、入口のベルが鳴った。
驚いて顔を上げると、近所のクリーニング屋の秋山さんが立っていた。母より少し年上で、毎朝いちばんにブレンドを頼んでいた人だ。葬儀にも来てくれていた。
「ごめんね、鍵が開いてたから」
秋山さんはしゃがみこんで、足元の葉書を拾った。宛名を見て、何も言わず、二、三枚を揃えて私に渡した。
「見つけたのね」
私は頷いたあとで、たまらず言った。
「どうしてこんなの書いてたんでしょう。送る気もないのに」
秋山さんは、カウンター席のいちばん端に腰かけた。そこはいつも母が閉店後に座る場所で、伝票の計算をするふりをしながら、しばらく何もせず湯を沸かしていた席だった。
「送る気がないんじゃなくてね」
「じゃあ何ですか」
「書く気があったのよ」
私は黙った。
秋山さんは店内を見回して、少し笑った。
「お母さん、よく言ってたの。宛名があると、一日が逃げていかないって。誰にも言わないままだと、今日あったことって、なかったみたいになるでしょう。だから書くんだって」
「でも、相手は」
「いないんでしょうね、たぶん。ずっと」
たぶん、という言い方がやさしかった。断言よりも、長いあいだの事情に触れずに済む言葉だった。
秋山さんは続けた。
「待ってたんじゃないと思う。待つって、もっと尖った顔になるもの。あの人はね、忘れないために書いてたんじゃなくて、忘れなくても暮らしていけるように書いてたのよ」
私は葉書の束を見た。母の字は、どれも変わらず少し右上がりで、濁点だけが小さかった。忙しい日も、腹の立つ日も、雨の日も、同じ筆圧で「様」まで丁寧に書かれていた。
その夜、私は店に一人で残った。片づけの手は途中で止まり、気づくとポットに水を入れていた。母のように豆はうまく挽けないので、インスタントの瓶を開けた。それでも湯気は同じように立った。
葉書を古いものから何枚か読んだ。
〈由奈が、はじめてひとりで店番をしました。おつりを五十円多く渡して、泣きそうになっていました〉
〈今日、店の窓ガラスに夕焼けが長く残りました。あなたはこういうとき、黙る人でしたね〉
〈もう帰ってこない人にも、季節は知らせたほうがいい気がして、書いています〉
そこまで読んで、私はようやくわかった。母は父に話しかけていたのではなく、いなくなった相手のぶんまで、この世に向かって言葉を置いていたのだ。店の灯りを消さないみたいに。誰も座っていない席にも、椅子を引いておくみたいに。
数日後、おおるりは閉店した。食器は引き取られ、豆の缶は空になり、常連たちは最後の一杯を妙に丁寧に飲んだ。帰り際、みんな少しずつ店内を見回したが、別れの言葉はどれも短かった。長く言うと、店が本当に終わってしまうからだと思った。
夕方、最後に郵便屋が来た。転送届の確認だった。
「今後の郵便物、どちらへ回しますか」
私は新しいアパートの住所を書いた。書き終えたあと、ふと、誰にも回せない郵便もあるのだと思った。母あての季節。店あての雨音。閉店後のカウンターにだけ立つ湯気。
郵便屋が帰ったあと、私は抽斗から一枚だけ葉書を取り出した。何も書かれていない、いちばん新しいやつだった。表の宛名の欄に、少し迷ってから、こう書いた。
母へ。
裏返し、ペン先を紙に置く。最初の一行が決まるまで、窓の外で自転車が一台、ゆっくり通り過ぎた。
〈本日、店の最後のコーヒーは少し薄かったです〉
書いてから、そんな報告に何の意味があるのだろうと思った。けれど、続きを書いた。
〈それでも湯気はちゃんと立ちました。秋山さんが、カップを持つ手が熱いねと言いました。私はようやく、何かを終える人の顔をしました〉
そこまで書いて、少しだけ肩の力が抜けた。
葉書は投函しなかった。母の束のいちばん上に重ね、輪ゴムで留めて、抽斗に戻した。送らないことは、捨てることと違うのだと、そのとき初めて思った。
店を出る前に、私は看板を裏返した。「準備中」が消えて、「本日終了」になる。
もう明日の営業はない。それでも、硝子に映る店内は前より少しだけ整って見えた。言葉が一枚、増えたからかもしれない。
鍵を回すと、夜の空気はまだ冷たかった。私はコートのポケットの中で指を握り、駅へ向かって歩き出した。明日からどこで暮らしても、きっとまた何かを書くだろう。誰に届くでもない、小さな一日を、逃がさないために。