短編
湯けむりの少女
山奥の温泉旅館で、青年が出会った不思議な少女の正体とは――。
「一人でご宿泊、珍しいですねぇ。お仕事ですか?」
フロントの老婆は、笑いながらそう言った。
礼儀正しく会釈しながら、健吾は「いや、ただの気晴らしで」と答えた。
そこは山奥にある小さな温泉旅館だった。ネットではあまり情報が出てこなかったが、昔ながらの木造建築と、静かな雰囲気に惹かれて、思い切って予約したのだった。
客は少ないようだった。館内はどこかしら薄暗く、廊下を歩くと床がぎしぎしと軋む。だが、それもまた味わい深い。
部屋に荷物を置くと、すぐに内湯に向かった。誰もいない浴場には、白く濃い湯けむりが漂い、静かに湯が流れる音だけが響いている。
湯に浸かりながら目を閉じると、足音が聞こえた。ぱしゃり、ぱしゃり、と誰かが入ってくる気配。
目を開けると、白い浴衣を着た少女が、湯の端に立っていた。
歳は十歳前後だろうか。髪は濡れていない。顔立ちははっきりしないが、妙にこちらを見つめているように感じた。
「……こんな時間に?」
声をかけようとしたが、少女は何も言わず、静かに湯に身を沈めた。
言葉は交わさなかったが、なぜか怖さはなかった。むしろ、不思議な懐かしさがあった。
次の日も、その次の日も、少女は湯船に現れた。無言のまま、健吾の隣に座り、じっと前を見ていた。
三日目の朝、健吾はフロントでふと尋ねた。
「この旅館に、小さな女の子のお客さん、来てます?」
老婆は一瞬だけ表情を止めたが、すぐに笑った。
「いえ、お一人だけですよ。お客様以外、誰も」
その夜、健吾は少女に話しかけてみた。
「……君、名前は?」
少女は答えなかった。だが、ふとこちらを見て、唇が微かに動いた。
「わすれたの?」
湯けむりの中で、健吾の記憶にひびが入った。
――小さい頃、家族で来た旅館。
――迷子になり、気づいたら一人で浴場にいた。
――その時、少女が隣に座っていた。
――その子が、どこかに行こうとして……。
「……あのとき……君……」
記憶の奥で、何かが崩れる音がした。湯の中から、白い小さな手が伸びてきた。
「いっしょにいこ?」
少女が微笑んだ。その顔は、今では思い出せない、誰かに似ていた。
次の日、健吾の姿は旅館から消えていた。部屋には荷物も残されておらず、チェックアウトの記録もなかったという。
老婆は言った。
「たまにいるんですよ、あの子に会ってしまう人」
浴場の奥、湯けむりの中には、今日も小さな影がひとつ、ぽつんと座っている。
あなたがもし、この旅館を見つけたなら――予約は、しない方がいいかもしれない。