短編
夕方の匂いを売る
閉架書庫で古い録音を整理する司書補の男は、二十年前の声に導かれて、夕方の匂いを運ぶ移動パン屋と出会う。
市立図書館のいちばん奥、閉架書庫のさらに奥に、視聴覚資料室という小さな部屋がある。窓はなく、一日じゅう蛍光灯が同じ明るさで点いている。私はそこで、古いカセットテープやミニディスクをパソコンに取り込み、題名や日付のわかるものには番号を振り、わからないものには「内容確認待ち」とだけ打ち込む臨時職員だった。
八月の終わり、段ボール三箱ぶんの寄贈資料が届いた。解体される商店街の事務所から運ばれてきたもので、祭りの記録、売り出しの宣伝、町内会の会議、子どものど自慢、そういう土地の細かい音が雑多に詰めこまれていた。ケースは日に焼け、ラベルの字はにじみ、再生するたびヘッドに茶色い粉がついた。
その中に、透明のカセットが一本だけ混ざっていた。背に「二十年後のわたしへ 夏まつり」と細い字で書かれている。たぶん何年か前、商店街の祭りでやった企画なのだろう。 booth番号だけが振ってあり、話し手の名前はない。
昼すぎ、機械のうなりしかない部屋で私はそれを再生した。
最初に、遠くで金魚すくいのポンプの音がした。誰かが笑って、マイクを軽く叩く音がする。それから、少し息を吸いこんで、小学校高学年くらいの女の子の声が言った。
「二十年後のわたしへ。もしパン屋さんになっていなかったら、べつのものを売ってください」
そこでいったん言葉が途切れ、向こう側で誰か大人が「一分しかないよ」と急かした。
女の子は笑わず、急ぎもせず、つづけた。
「夕方の匂いを売ってください。パンが焼ける匂いと、道がちょっと冷えてくる匂いと、家に帰る人の服につく匂い。あの匂いがあると、みんな少しだけやさしくなるので」
そのあと、照れたように小さく「以上です」と言って、録音は終わった。
私は巻き戻してもう一度聞いた。声に特別な技巧があるわけではない。ただ、言葉の置き方が静かで、きっぱりしていた。大人に向けてではなく、ほんとうに二十年後の自分だけに言っている声だった。
ケースの内側には、当日の進行表を切ったような紙片が挟まっていた。そこに「協賛 白鳥ベーカリー」とある。白鳥ベーカリーは、私が子どものころ商店街の角にあった店だ。クリームパンの包み紙が薄い水色で、夕方になると換気扇から甘い湯気が歩道へ流れてきた。店はとっくになくなっていた。商店街が半分駐車場になった頃、看板だけもいつのまにか消えた。
業務用の入力欄に私は
「商店街夏まつり企画『二十年後のわたしへ』録音。話者不明、女児。内容に特徴あり」
と記した。特徴あり、という曖昧な言葉しか選べなかった。
その日の帰り、駅へ向かう途中で、バターの匂いがした。
九月が近い夕暮れだった。空はまだ明るいのに、街路樹の根元だけ先に影になっている。駅前広場のはずれに、白い移動販売車が停まっていた。側面の小さな窓が開き、籠に丸パンやあんパンが並んでいる。手書きの札に「しらとり移動パン」とあった。
私は引き寄せられるように列の最後についた。前にいた小学生が百円玉を二枚握って迷っていると、売り子の女の人が言った。
「焼きたてじゃないけど、帰る途中にちょうどいいよ。袋の中で少しだけ、またやわらかくなるから」
その声の調子に、私はテープを聞いたときと同じ小さな静けさを感じた。
順番が来て、私は何を買うか決めないままトレーを見た。メロンパン、塩パン、くるみパン。どれも夕方に似合う名前だった。
「おすすめはありますか」と私は尋ねた。
女の人は三十代半ばくらいに見えた。髪を後ろでひとつに束ね、腕まくりしたシャツに小麦粉の白い跡がついている。少し考えてから、「いまの時間なら、あんバター」と言った。「甘いのに、夜の邪魔をしません」
私はあんバターをひとつ買った。袋を受け取るとき、思いきって聞いた。
「昔、白鳥ベーカリーって、商店街にありましたよね」
女の人は一瞬だけ目を上げた。
「ありました。よくご存じですね」
「子どものころ、たまに。水色の包み紙の」
「ああ」と彼女は笑った。「なつかしい。あれ、うちです」
うち、という言い方が自然だった。私は胸の中で何かが少しだけ動くのを感じた。
「変なことを聞くんですけど」と前置きして、私は図書館の資料整理のことを簡単に話した。商店街からきた古い録音の中に、祭りで子どもが未来の自分に宛てて話しているテープがあったこと。その中に、パン屋になっていなかったら夕方の匂いを売ってください、と言う声が入っていたこと。
彼女は黙って聞いていた。背後で電車がホームに入る音がして、広場の鳩が少し跳ねた。
「たぶん」と彼女は言った。「それ、私です」
私は驚かなかった。驚くより先に、やはりそうかと思った。
「そんなこと言いそうだったなあ」
彼女は自分でそう言って、少しだけ照れたように口元をゆるめた。
「パン屋さんには、ならなかったんですか」
「店の形では、なれませんでした。父が倒れて、店を閉めて、そのあと建物もなくなって。しばらく別の仕事をしてたんですけど、結局、パンのことを忘れられなくて」
彼女は販売車の棚を整えながら話した。
「だから車にしました。店は持てなかったけど、匂いなら運べるから。夕方に売るのは、そのほうがパンの匂いが似合うからです」
言い終えてから、自分の言葉に気づいたのか、彼女はあ、と小さく声を出した。「ほんとに言ってたんですね、私」
私は翌日、館の規定に沿ってデータ化した音源を私物の小さなプレーヤーに移し、閉館後に駅前へ持っていった。複製を外部提供してよい資料かどうか、厳密には少し曖昧だった。けれど誰かに渡すというより、持ち主に返す感じがした。
販売車はその日も同じ場所にいた。仕事終わりの人たちが二、三人並び、部活帰りの高校生が塩パンを買っていく。日が落ちるにつれて、車の中の照明だけがあたたかい色になった。
店じまいのあと、彼女は助手席に腰をかけ、片耳だけイヤホンをつけた。私は車の外に立ったまま、何も言わなかった。
テープの中の子どもの声が、二十年の時間を飛び越えて流れた。
「二十年後のわたしへ。もしパン屋さんになっていなかったら、べつのものを売ってください。夕方の匂いを売ってください。パンが焼ける匂いと、道がちょっと冷えてくる匂いと、家に帰る人の服につく匂い。あの匂いがあると、みんな少しだけやさしくなるので」
車内の小さなスピーカーから、祭りのざわめきまでそのまま聞こえた。
彼女は最後まで聞いて、イヤホンを外した。泣きはしなかった。ただ、長い間どこかに預けていた荷物を受け取った人のように、肩の力を少し抜いた。
「ちゃんと回収しに来ましたね、あの子」
そう言って笑った。
「案外、言うことを聞いてたんだなあ、私」
彼女は売れ残りの丸パンを紙袋に三つ入れ、私に差し出した。「お礼です」と言うので、私は受け取った。まだぬるくはなかったが、袋の中にはたしかに夕方の匂いがこもっていた。
帰り道、川沿いの歩道を歩きながら、私は袋を胸のあたりで持った。水面は暗く、対岸のマンションの窓がところどころ灯っている。パンの匂いが服に移り、今日の空気と混ざって、さっき録音で聞いた言葉が少しだけ現実のほうへ寄ってきた。
記録というのは、失われたものをそのまま保存する箱ではないのかもしれない。先に置いていかれた声が、遠まわりをして、間に合うべき人に間に合うための道なのだ。
駅の改札が見えるところで、袋の口がふわりと開き、甘い匂いがもれた。すれ違った会社帰りの男の人が、ほんの少しだけ顔を上げた。家へ急ぐ足は止めないまま、その人の表情がわずかにゆるむのを見て、私はあの録音の一分間が、まだ終わっていない気がした。